Stories
こころの安息地点に至る道標を、味わう。
――――語り手 <FIL>ブランドマネージャー 穴井里奈さん
清らかな湿度に満たされる土地、阿蘇。
「千年の草原」と呼ばれる阿蘇の原野は、平安の頃より、春先にヒトが山を焼くことで維持されてきた。巡りくる季節にまた、新たな命を芽吹かせるために。
「人間の基礎と成るものは私たちの住む山に豊かにある、と最近あらためて思います。核となる大事なものは全てここに生まれているのだと」
ヒトと自然が共益を得る阿蘇の一角、南小国町に暮らす穴井里奈さんは、地元の山林の多くを占める小国杉を活用したブランド<FIL>をパートナーとともに立ち上げた。そして、「私たちにとっての豊かな暮らし(=Fulfilling life)」とは?」と自らに問うと同時に、使い手へと問い続けている。
「AKARIの生まれ故郷にある高千穂神社の宮司さんと、『里山と都会はどちらが便利で豊かか?』と対話したことがあります。その際、こう言い切っていらっしゃるのが印象的でした。『山の暮らしが最も豊かですよ』。そして、『なんでも揃いますよ』と」
山には果実が実り、山菜が芽吹く。飲み水もそこここに湧き出でる。繭を育て糸を紡ぎ出し、動物の皮をなめして身に纏う衣を仕立てることもできる。煮炊きするための燃料となるだけでなく、雨や動物から身を隠す「守られた」寝床を建てるための材は辺り一面に生えている。
「衣食住、その全てが山にあるもので完結するんですよね。文化的価値やアートなどは都会でこそ広がりを見せるものだと思いますが、一方で、ここには人間が人間たるための基礎となるくらいの豊かさが十二分にある。豊かさの根源となるものは、私たちの暮らす山中にあふれるほどあるんです」
里奈さんが暮らす南小国町の人口は3600人足らず。村にはコンビニエンスな店やものはほとんど無い。ヒトによっては不便だ、何も無い、と言う。
「でも意外と心の中には満たされているものがあるんじゃないかな」
無いなら無いで作る。自分で、手を動かして作る。環境から創作意欲は生まれる。阿蘇北部に広がるこの土地に暮らすことで、なにかを作りたいという欲が強く湧く気がする、と彼女は微笑む。
物を作る行為は、人間の根源的な生きる力を育む
ものをつくる力を、里奈さんは「サバイブする力」と言い換える。
人間に備わる両の手で自然物を触り、加工し、自らの営みに不足するなにかを補完するための作業。生を、命を、より健やかな状態へと変容させるための、自らの存在に対する貢献作業でもある。
「力が元来ヒトに備わっている以上、それを失ってしまうのはもったいないように思います。常に力を耕し、培うことが人間にとっての真の強さになるんじゃないでしょうか」
サバイブする力がもたらすものは、実際的な「モノ」を作るだけでは無い。自分の手から組み合わせたものを愛する感覚が、ヒトにとって、ひとつの大事なものとなる。
「たとえば自分で作ったものに対して、どこか自分の身から出てきた分身のような少々のエモーショナルさを覚えますが、その感覚はすごく面白くないですか。お金の代用品ではない、とはっきり感じられるあの感覚です。
一方で、安価で、場所を問わず便利に買えるものは案外簡単に捨てることもできます。安いしまた次買えばいいや、と。この「コンビニエンスであればこそ」生まれる感覚の、対となる感覚がものづくりの現場では生まれるように思います。
「大切にする」、すごく当たり前に用いられる動詞ですけれどもモノに情が移るような、無機物に対してなんらかの思いが育まれる感覚はすごく尊いもののはずです」
私たちは何を作ろうとし、知らずうちに何を育んでいるのか。一考の余地が生まれる。
身体に問う、「あなたは今豊かな状態ですか?」
「私ね、小国杉をいつか食べてみたいと思っていて」
そういう植物や木への純粋な好奇心や期待があるんですよ、と里奈さんがチャーミングに笑う。その彼女が、今回<AKARI>のヒュウガトウキ茶のブレンドの舵取りを任された。
配慮したのは、ヒュウガトウキの個性を誤魔化さないこと。飲みやすく仕上げることもできたが、それは「自らを飾り立てるような、そのものがもつ価値をマイナス要素として捉えて隠そうとすること」。
ありのままの味わいを残しながらも長く飲み続ける味わいにするために、ほのかな甘みを感じさせる米麹茶を配した。選択の要は、ヒュウガトウキの霊性にある。
「麹菌とは不思議なもので、目には見えませんが確かにそこにあると分かります。不確かなものだけれども確かにある。この気配をお茶に纏わせたかったんです」
人間が感知しようとしなかろうと、自然の力はつねに存在する。まさに「不確かだけれども確かにある」、である。力を受け取るか、受け取り損ねるかは人間側の問題かもしれない。
ただ、その力に、積極的に救われたいときが人間にはある。対人からでは得られない、自然からのみ得られる救済措置のようなものがある。
「ときどき阿蘇の森や原野を眺めにいきます。数分で至る、暮らしのほんの少し延長線にある場所へと。
そこに広がる草や木や山の風景は、昨日今日で見比べても大した変化はありません。けれども週や月単位で見れば明らかな移り変わりがあり、大きな流れを確かに感じます。それを見てとる度に、流れに強く争わずにいよう、と思うのです。人間の間にあるさまざまなことに対して」
見渡す阿蘇の原野には静謐な空気が流れるが、その深層部では今このひと時にもマグマがふつふつと激っている。あまりにもかけ離れた、そして途方もない力によって生まれた眼前の風景を前に、ほっと一息つく。そして、彼女は続ける。
「決して流されているのではなく、どんな物事もどんな形であれ、着実に進んでいくという事象を、私はただ見つめているんだと思います。そうして、うろたえずにいよう、私なりの自分の身の置き所はここだ、と原点回帰するのです」
「そこ」に行けば、自分の体がよい状態へと回帰する。そうした場所が自分にはある、と知っていること。里奈さんの言葉を借りれば、「『それぞれの私』にとっての救済地があるということが大事」というところである。
いつだってそこに駆け込めば良い。自分が求めれば、いつでも。
けれども「都市」に住むならば、自然と切り離された「山ならぬ場所」に住むならば、すぐに向かう先が見つけられないならば、まずは一杯の茶を口に含んでみるのもひとつの手立てかもしれない。
甘みや酸み、苦みなどに安易に振り分けられない茶が、自分の感じる力を敏感に刺激する。日常的に飲み続けるうちに、日々の身体反応から分かることがあるはずだ。
今すぐに、救済地に駆け込むべきか?
満たされているか?
その回答は、頭ではなくあなたの体が、あなたの舌が、知っている。理性を飛び越えた、素直な反応があるに違いない。
執筆:小泉 悠莉亜
撮影:白木 世志一