Stories
人が生きる、根源的なエネルギーに触れる。その純粋な苦みが、ひとりひとりのいのちの輪郭をはっきりさせる。
―――― 語り手 「ひふみゆ」菅原正観さん、和美さん
ひふみ、は浄化のおと。ゆ、は世界。あわせて、「ひふみゆ」。
「余計なものを手放して、からだをお掃除するわたしたちの姿に輪郭をあたえてくれた名前だよね」
そう言ってふにゃっと笑う、和美さん。この屋号をともに生きる正観さんと顔を見合わせて、「笑っちゃうくらい一生懸命生きてるよねぇー」と続ける。
ふたりは、いままでの人生をかけてたくさんの人たちに触れて、手当てをしてきた。「治す」ではなく施術者の望む体の状態やありようへと導くようなやりかたで。そうして鍼師であり灸師であり、そのほかさまざまな「ととのえる技能」をもっていても、それだけに捉われず、「身体」について広い視点で見つめてきた。
「だれかの体に触れて施術するときね、すごーく気持ちいいの。施術されてる方が気持ちいいと思うでしょ? ちがうの。私たちもね、すっごく気持ちいいの。『うわー気持ちいいねー、いまー』って」
肌に触れて、手当てをする。その作業が大好き、という言葉に一片のうそはない。けれども連日長時間の施術があまりにも続くと、和美さん曰く「透明な感じでやるから、消えちゃう感覚があった」。それは、「菅原和美の生活がままならなくなる」ほどで、いつもの自分に戻るまでに数日かかるほどに心身への反響があった。
「それって、『私を生きる』ことが蔑ろになってるんじゃない?って。じゃあ、それをしないようにしようって」
ふたりで一生懸命生きることを、あらためて暮らしのまんなかに据えた。空が広い土地へと引っ越し、これからお世話になる古い家屋を拭き、掃き清め、修繕した。自分たちの体となるコメや野菜を作るため農仕事を始め、猫を撫でながらひだまりのできる居間で昼寝をして、遊びに来る友人や正観さんの具合がちょっと良くなさそうだったら体のお手伝いをたまにするようにした。「人体実験」と称して、違和感や痛みを見つめてはちょっとずつ変えてきた行為の延長にある、今の、ふたりの生き方。
ふたりの言葉を借りるならば、「内側から変わってきたから、それに合わせて外の世界もそれに合わそう」とした現在地がここ。身体も環境も、世界も全部一緒。なにかが変わったのならば、その自然な流れに合わせて、ほかのものも調和をとって変化していくものなのだから。
「なんかね、それまでは生き延びてきたんだよね。仕方ない、生き延びるかって。青々と。でもね、今はね、生きてるって感じがするよ」
その言葉に、正観さんが頷く。
「生きてるね、『和ちゃん』としてね。生きてるよ」
そうして、続ける。
「和ちゃんはね、全身全霊の『全霊』で動いているからね。僕なんかよりもずうっと頭が痛いんだろうな、と思っても頑張っちゃう。僕はね、こどもの頃から体の声ばっかり聞こうとしてたから、『あっ』と思ったらすぐに休んじゃうんだけどね」
右と左を均等にしたい、という想いから、ふいに右足を躓いたら、意識的に左足も躓く小学生だった正観さん。「そんなわけですっかり腑抜けになりました」と正観さんはおどけて言うけれども、ぶわあっと大きな口をあけてあくびする姿も、家中の梁や柱をつかっていつでも体のどこかを伸ばしている姿にも、おおらかな安心感がある。
「世界はね、比較じゃないから。自分にとっての違和感を解消したり、しなかったりすればいいの。体もね、なーんの滞りもなくやりたいことができれば気持ちいいけど、病気になってもね、いいの。治ればいいだけだから。治らなくてもいい、それと付き合いながらどうやって生きていくか考えていけるから」
病になってもいい。違和感を感じてもいい。それらは「自分」を知るための手立てだから。
病気になると、いつもと違う体の感覚が得られる。その感覚はきっと「意味があるもの」。その痛みや違和感を考えることは、自分を知ることでもある。正観さんはそう教えてくれた。
生きるってそんな感じ、とその語り口こそやわらかいけれども、その一言一句には揺るぎない芯がある。
「それでもたとえば身体のパフォーマンスが下がっていれば、受容器としての身体が機能しないわけ。鈍感すぎたり、敏感すぎたり。苦みに対する反応もそう」
苦みは「心を補す」もの、と五味五行では教わる。それは人間が生きる上で必要なエネルギー源を刺激する作用。今日も「人体実験」をするふたりが言うには、ヒュウガトウキ由来のお茶<AKARI 日向当帰茶>には「苦み、それも純粋な苦みがある」。
「飲むと、ベロの上で『ここが苦みを感じるところかー!』ってはっきり分かる。それだけ純粋だから、ぼやけることなく喉に落ちていって、その感覚を追いかけたくなるね」
しみじみとした口調で呟いて、ふたりは目を閉じる。
「薬と違うのは、お湯に溶けて調和するところかな。これだけ純粋なものだから、きっと取り込んだ先それぞれの細胞や意識に細かくふれて、眠っていれば起こしたり、過剰であれば緩めたりということを繊細に仕事してくれるのかもしれないね」
これを飲めば必ず病が治るというものではなく、本人の動きの手助けをするようなお茶だねえ、という和美さんの言葉に、正観さんも大きく頷く(「最初飲んだとき、俺は全く苦みを感じなかったからねえ〜」)。
おしなべていつでも一定の効果が見込まれる西洋の薬と違って、ヒュウガトウキは身体との対話のなかで作用したりしなかったりする。それはひとりひとりが違う人間で、異なる痛みや違和感を有する個体で、身体とのちょうどよい付き合い方もそれぞれ違うことを教えてくれる。そして、その教えを受け取り、自分はどうするべきか考えるきっかけをもたらす。もちろん、「違和感を感じたら変えてもいいし、変えなくてもいい」。
「ただすべてのものや人が健やかでありますように」
そう願う、ひふみゆのふたりにとっての暮らしの基盤となるもの。それは、澄んだ空気、美味しい湧水、美しい景色、土を歩く、ゆっくりあたたかい家族、前を見て感覚思考しつくること。
そうしてふたりの生活を支えるものは、だれかにとっても同じとは限らない。
自分だけのいのちの輪郭をしゃんとさせてくれるものはなにか。小さな疑問が波及して、自分の暮らし方、生き方にまで作用する。
そんな気づきをもたらす「神の草」は、なにを伝えようとしているのか。その答えもまたひとりひとり違う。ただ、その飲み手本人だけが知ることとなる。
執筆:小泉 悠莉亜
撮影:Stefano Cometta